2006年度日本ドイツ学会奨励賞 宮本直美 氏『教養の歴史社会学』
2006年度日本ドイツ学会奨励賞 山口庸子 氏『踊る身体の詩学』

2006年度日本ドイツ学会奨励賞

受賞作

2006年度日本ドイツ学会奨励賞は、学会奨励賞選考委員会による慎重な選考を経て、宮本直美氏(立命館大学文学部)『教養の歴史社会学 ドイツの市民社会と音楽』(岩波書店)、山口庸子氏(名古屋大学大学院国際言語文化研究科)『踊る身体の詩学 モデルネの舞踊表象』(名古屋大学出版会)の二点に決定されました。2007年6月23日、東京・明治大学において開催された日本ドイツ学会大会での授賞式において奨励賞選考委員会の木村靖二委員長から選考経過と受賞理由の発表があり、日本ドイツ学会広渡清吾理事長から宮本直美氏と山口庸子氏に賞状と副賞が授与されました。

選考理由

宮本氏の研究は、19世紀以来のドイツ社会を特色づける教養市民層の検討の切り口として教養理念そのものを対象に取りあげ、その際教養としての音楽の成立・拡大・浸透過程からを教養市民層の輪郭を浮かび上がらせるというユニークな手法を採用している。個々の部分では先行研究の問題提起や成果を踏まえているが、とりわけ2章・3章アマチュア音楽活動とオラトリオブーム、バッハ復興運動などは、きわめてオリジナリティの高い分析で、説得力も高い。もっとも、教養理念の「規定不能性」と本書で強調されている指摘は、例えばマンハイムが19世紀保守主義・自由主義について、それが具体的な主義・政策を意味するものではなく、本質的には「Haltung」であったとしていることから、教養だけに限定されるべきかは疑問無しとしないなどの点もあるが、全体としては意欲的挑戦として評価できる。

山口氏の研究は、これまでほとんど体系的検討がなされてこなかったモデルネ期の舞踏に焦点を当てたもので、それらを担う有名・無名の群像の分析からモデルネの舞踏、「踊る身体の詩学」のアンビバレントな性格、革新と危うさを描き出している。特に序章は歴史学・社会学その他この分野に関わる研究者に新しい視野と示唆的な問題提起を含む内容であり、3人のユダヤ系女性詩人を扱った第3部も印象深く読める。長年の研鑽の成果をまとめたものであることから、内容的にやや一貫性を持って理解しにくいところが散見されるが、当該分野でだけでなく、ひろくドイツ関連分野の裨益するところに多い業績である。

宮本直美 氏の受賞あいさつ

立命館大学の宮本直美と申します。本日は、大変光栄な賞を頂きまして、誠にありがとうございます。ご連絡を頂いた時は、非常に驚きましたし、少々当惑も致しました。

私が大学で初めて学んだのは音楽学だったのですが、当時は音楽の研究と言えばドイツ音楽史を学ぶことが主流であり、音楽とドイツとは、イメージとして自然に結びついていたように思います。そうした環境の中で生まれた私自身の関心は、特定の作曲家とその作品の研究――それもまた当時の音楽学においてはごく当たり前の主題だったのですが――というよりは、「音楽とドイツ社会」に向かうようになり、現在では知られていない作曲家や、アマチュアの音楽活動、コンサートのあり方などに目を向けつつ、自分なりのテーマを模索するようになりました。

そんな中で出会ったのが社会学という分野でした。自分にとって新しい分野に足を踏み入れてみると、却ってまた音楽学の閉鎖性とでも言うべきものに気づかされるようになりました。音楽学というディシプリンが過度に専門化された分野であることは今までもしばしば言われてきましたが、例えば本日の日本ドイツ学会という、ドイツをフィールドとする様々な分野の研究者が集まる学会において、音楽学者にはなかなかお目にかかれないということを考えても、ある程度は今でもあてはまることかもしれないと感じております。

音楽学領域においては私はアウトサイダー的な位置にありましたが、一方社会学では、社会においてそれほど重要と思われてはいない音楽を扱う立場は、これもまた周縁的であります。けれども、このようなポジションにいるからこそ見えてくる問題を、これからも私なりに探求していくつもりです。新しい方向からアプローチすることによって、音楽現象のおもしろさや意義を見出し、そこから音楽研究の可能性を広げることに貢献できればと思っております。

このような経緯から、私は学際性というものを意識しておりますが、そこにはただ学際的であればよいというユートピア的な発想はありません。自分の提示したものが、今度はそれぞれの専門家の厳しい批判の目にさらされるということでもありますし、その意味での覚悟も必要となります。それをまたありがたい刺激として糧にしてゆくことができれば、それではじめて望ましい学際性がありえると信じております。

今回の受賞をスタート地点として、また新たに精進してまいりたいと思っております。この度は本当にありがとうございました。授賞に加えまして、このような場を設けて頂きましたことにも、改めて御礼申し上げます。

山口庸子 氏の受賞あいさつ

名古屋大学国際言語文化研究科の山口庸子です。このたびは、日本ドイツ学会の奨励賞を賜り、誠にありがとうございました。非常に驚きましたが、とても嬉しいお知らせでもありました。日本ドイツ学会、および選考委員の先生方に、心から御礼を申し上げます。また、著書が完成するまでの長い執筆期間に、ご助力と励ましとを頂いたすべての方々にも、この場を借りて御礼を申し上げたいと思います。

拙著『踊る身体の詩学』は、ドイツ語圏モデルネにおける、文学と舞踊の密接な関係を論じた本です。10分ほどのスピーチを、ということですので、なぜこのような、あまりなじみのないテーマを扱うに至ったかをお話して、ご挨拶に代えたいと思います。

あとがきにも記しましたように、このテーマを思いついたきっかけは、ネリー・ザックスを始めとする、20世紀ドイツの代表的なユダヤ系女性詩人の作品のなかで、舞踊表象が大きな役割を果たしている事実に気づいたことでした。1990年代前半のことで、ちょうど文学と舞踊に関する新しい研究が出始めた頃でした。それらの先行文献を調べるにつれ、たとえば、ツァラトゥストラが踊り手として登場するように、ニーチェや、リルケや、ゲオルゲやホーフマンスタールと言った、有名な哲学者や文学者においても、舞踊が大きな役割を果たすことがわかってまいりました。なぜ舞踊なのだろう、という疑問が日に日に押さえ切れなくなり、何一つ知らなかったドイツ語圏モダンダンスの歴史を勉強し始めました。こうして勉強を進めるうちに、20世紀初頭のドイツ語圏が、モダンダンスを含めた身体文化の一大中心地であったことや、ロシア・バレエ団や、表現主義、ダダイズムにおける、諸芸術間のコラボレーションの様々な例を知るようになりました。

このように私の場合は、文学研究から舞踊史研究へと入っていったために、始めは両者の関係を、文学の側のみから見ておりました。けれどもそのうち、文学者が描き出した踊りや踊る身体と、舞踊家自身が演じたり論じたりするダンスは、必ずしも一致しないということに気がつきました。例えばホーフマンスタールにとって、舞踊の言語が、いわゆる「言語の危機」を克服する鍵のようなものであったとしても、当の舞踊家が、そう考えていたとは限らないわけです。モダンダンスの舞踊家には、圧倒的に女性が多く、ここには、身体と言語をめぐる、ジェンダーの問題も関わってきます。

それならば、舞踊家たち自身は、「ことば」や「身体」をどのように捉えていたのだろうか。このような疑問から、今度は舞踊家の自伝や、当時の舞踊理論書などを集めて検討を始めました。残念ながら、調査できたのは極めてわずかな量に過ぎないのですが、それでもドイツ語圏モデルネにおいて、学問や芸術のジャンルを問わず、実に多彩な身体観・舞踊観が提示され、論じられていたという事実に圧倒されました。そして、モダンダンスの身体は、このような多様な言説および、大衆文化や非西欧の舞踊――このなかには、川上貞奴らの日本の舞踊も含まれるわけですが――も含めた、多彩な文化的出自を持つ身体的なパフォーマンスが、言わばシャッフルされ、相互に作用し合うなかで、徐々に生じてきたのだと考えるようになりました。西洋舞踊史の一般的な枠組みでは、モダンダンスは、バレエからモダンダンスへという通時的な軸で語られることが多いのですが、私はむしろ、モダンダンスをめぐるもろもろの共時的な現象に非常に魅力を感じました。

そうしているうちに、モダンダンスの成立と前後して各地に生まれていた様々な共同体や芸術家コロニーが、文学と舞踊を繋ぐ回路のような役割を果たす例があると気づかされました。そこで、モダンダンスやモデルネの芸術と、青年運動やヌーディズムや田園都市運動など、各種の改革運動との関連を調べ始め、スイスのアスコーナにある「モンテ・ヴェリタ(真理の山)」や、オイリュトミーの本拠地であるドルナッハなども訪れてみました。そして、ドイツ語圏のモダンダンスの隆盛は、失われた、あるいは失われたと解釈された、自然や聖性や共同体性の回復を求める心情と深く結びついていると確信するに至りました。つまり、20世紀初頭のドイツ語圏において、社会全体が体感した「危機」への応答として、踊る身体によって感覚あるいは提示される世界が、日常世界とは異なるオルターナティヴな世界して了解され、そしてそのことが、人々の心を捕らえたのではないかと考えたのです。そうであるがゆえに、文学者たちも、舞踊に心惹かれたのだと私には思われました。

このように、拙著には、文学研究と舞踊史研究の枠組みに収まりきらず、そこからはみ出していくような部分がございます。恐らくそれぞれの専門家の方から見れば、非常に危なっかしく、厳しい批判を免れない部分があるだろうと思っております。そもそも抒情詩における舞踊のモチーフ、というささやかなテーマを研究していた人間が、このような本を書くに至りましたのは、執筆者の意志というよりは、「モデルネの踊る身体」という素材自身の意志によるものです。私は、素材の持つどうしようもない力に引きずられて手探りで進むうちに、やむを得ず学問ジャンルの境界を踏み越えてしまった、というのが実情です。受賞をきっかけに、各分野の専門家の方々の忌憚のないご批判を頂くことができれば、また、様々な専門の方が、ドイツ語圏のモダンダンス、およびそのモダンダンスを含めたモデルネの身体文化という、この不思議で魅力的な時代現象に眼を向けて下さるのならば、これに過ぎる喜びはありません。本日は、本当にありがとうございました。