2016年度日本ドイツ学会奨励賞 板橋拓己 氏『黒いヨーロッパ』

2016年度日本ドイツ学会奨励賞

受賞作

2016年度日本ドイツ学会奨励賞は、学会奨励賞選考委員会による慎重な選考を経て、 板橋拓己氏(成蹊大学法学部 教授)の『黒いヨーロッパ ドイツにおけるキリスト教保守派の「西洋(アーベントラント)」主義、1925~1965年』(吉田書店)に決定されました。2017年6月4日、筑波大学東京キャンパス文京校舎において開催された日本ドイツ学会大会での授賞式において奨励賞選考委員会の村上公子委員長から選考経過と受賞理由の発表があり、日本ドイツ学会香川檀理事長から板橋氏代理の吉田書店吉田真也氏に賞状と副賞が授与されました。

選考理由

2016年度日本ドイツ学会奨励賞は、板橋拓己著『黒いヨーロッパ ドイツにおけるキリスト教保守派の「西洋(アーベントラント)」主義、1925~1965年』吉田書店刊 に差し上げることとなりました。

ここで著者ならびに受賞作の概要をご紹介し、審査経過をご報告申し上げます。

板橋拓己さんは1978年栃木県生まれ。2001年北海道大学法学部卒業、08年同大学大学院法学研究科博士後期課程修了。法学博士の学位を取得されました。現在は成蹊大学法学部教授を務めておられます。

受賞作『黒いヨーロッパ』には、長い副題「ドイツにおけるキリスト教保守派の「西洋(アーベントラント)」主義、1925~1965年」がついていますが、この副題はそのまま、この作品の主題を示しています。『黒いヨーロッパ』の「黒」とは、キリスト教聖職者の纏う法服の色を指し、そこからキリスト教、とりわけキリスト教系の政党を暗示する表現としても用いられています。ドイツのニュースでは、Schwarz-RotとかSchwarz-Grünという言い方で、キリスト教民主・社会同盟と社会民主党の連立や、緑の党との連立を示すことがよくあるのは、ご存じのとおりです。

筆者は序章において「本書では…キリスト教系の政治勢力のなかでも、最も保守的で『反近代的』なグループを中心に20世紀におけるキリスト教系政治勢力とヨーロッパ統合の関係を考察する」と述べています。だからこその『黒いヨーロッパ』であり、その「最も保守的で『反近代的』なグループ」こそ、「『アーベントラント(Abendland:西洋)』というスローガンを掲げて、ある種のヨーロッパ統合を支持してきたキリスト教保守派の人びと、いわゆる『アーベントラント主義者』」であるわけです。

この保守派の運動が「アーベントラント運動」であり、この運動の出発点にあたる雑誌『アーベントラント』が創刊された1925年から、「第二ヴァチカン公会議(1962-65年)後…教皇庁が漸く民主主義を積極的に肯定するように」なり、「世俗化や価値意識の転換によって…保守的で著しく宗教色の濃かったアーベントラント運動」が「世論への影響力を決定的に失う」1965年までを対象としていることも、本書の副題が示すとおりです。

本書の内容について、一言付け加えるならば、筆者は第二次世界大戦後、ドイツ連邦共和国の「西側結合路線」を選択、推進した初代連邦共和国首相コンラート・アーデナウアーがアーベントラント運動に親和的な発言を繰り返していたことなどから、この運動が戦後のドイツの、そして統合ヨーロッパへと向かうヨーロッパの政治史に、少なからぬ影響を及ぼした可能性があることを指摘しています。

次に、奨励賞審査の経過をご報告申しあげます。今回審査対象となったのは4冊でした。

審査委員8人全員が4冊全てを読み、例年通り10点満点で評価したものを事務局で集計し、5月7日、早稲田大学において審査委員会を開催いたしました。出席の委員は6人でした。ここでまず、集計結果に従って、1冊を審査対象からはずし、3冊を授賞対象作として議論を行いました。実は、板橋作品は最初の集計では最高点ではなく、残りもう一点の作品と合計点では同点だったのですが、対象とする研究分野内での評価、ならびにテーマの学際性を考慮した結果、板橋作品を受賞作とすることで出席委員全体の合意が得られ、その後、欠席委員の合意も得て、板橋作品にドイツ学会奨励賞を差し上げることが決まりました。

審査経過からもお分かりいただけるとおり、板橋作品には歴史研究を専門とする委員から非常に高い評価が寄せられました。ある委員は「研究上の間隙をつくもので、新境地開拓の努力を多としたい。日本のドイツ研究に及ぼすインパクトはかなり大きい」との所見を示しています。それに対して、歴史研究の専門家ではない委員からは、「なかなか焦点を結ばず、データは増えても結局肩すかし的印象となってしまう」といった辛口の評価が多く示されました。

テーマが魅力的であることは全員が認めているところですので、ドイツ学会奨励賞審査委員会としては、板橋さんが今後も、刺激的なテーマに果敢に取り組まれ、門外漢にも分かり易い記述を身につけられることを願ってやみません。

板橋拓己 氏の受賞あいさつ

成蹊大学の板橋拓己と申します。このたびは日本ドイツ学会奨励賞という栄誉ある賞を与えられ、たいへん光栄に思っております。日本ドイツ学会、および選考委員の先生方に、心より御礼を申し上げます。また、この場を借りまして、これまでの研究生活でお世話になってきたすべての方々に深く御礼を申し上げます。現在、ケルン大学にて長期研修中につき、授賞式を欠席する無礼をお許しください。

本書『黒いヨーロッパ』は、第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国において、「西洋(アーベントラント)」というスローガンを掲げて、ヨーロッパ統合を支持してきたキリスト教保守派の人びと、いわゆる「アーベントラント主義者」に連なる思想と運動を、戦間期にまでさかのぼって、実証的に検討したものです。

「アーベントラント」という概念は、シュペングラーの『西洋の没落』で有名かもしれませんが、反近代的で反リベラルな含意をもつ概念です。本書は、その反近代的な概念を掲げた「アーベントラント運動」が、これまで近代的、あるいはリベラルなプロジェクトと考えられてきたヨーロッパ統合を推進してきた逆説を描こうとしました。もちろん、このテーゼによって、ヨーロッパ統合が反近代的なプロジェクトだったと言いたいわけではありません。そうではなく、わたしは、本書を通して、単線的・近代主義的なヨーロッパ統合の歴史叙述に対して、ヨーロッパ統合の複合的な性格を示そうとしたわけです。本書のなかでは、既存の研究に対して、いくぶん挑発的な主張を展開しましたが、本日の受賞をきっかけに、様々な分野の専門家の方々から、さらなるご批判を頂くことができれば幸いです。

さて、現在のドイツ、そしてドイツを取り巻く国際環境は激動のさなかにあります。対外的には、2016年に大西洋の両岸で起きた二つの衝撃的な出来事、すなわちEU脱退をめぐるイギリス国民投票での離脱派の勝利と、アメリカ大統領選でのドナルド・トランプの勝利によって、ドイツ連邦共和国の外交政策の大前提であった「西側結合」路線が揺さぶられています。また、国内的には、一時の勢いを失ったとはいえ、イスラム系移民排斥運動であるペギーダや、極右ポピュリズム政党である「ドイツのための選択肢(AfD)」などが、ドイツの政治・社会を揺さぶっています。

こうした目まぐるしい「変化」を批判的に考察するためにも、歴史研究は欠かせません。いったい何が新しい問題で、何が古い問題なのか。ペギーダ(PEGIDA)のAはアーベントラントのAですが、なぜペギーダは「アーベントラント」という概念を使っているのか。あるいは、そもそもドイツ連邦共和国の「西側結合」とは何だったのか。そうしたことを考える際にも、本書はいくばくかの示唆を与えるものになっているかと思います。歴史研究者だけでなく、ひろく現代ドイツ・ヨーロッパに関心を持つ方々にも本書をお読みいただけるならば、著者としてはこのうえない喜びです。

最後に。現在、二年間の長期研修期間を勤務校から与えられ、ケルン大学歴史学科歴史教授学・ヨーロッパ統合史講座というところで客員研究員を務めております。いまだドイツ語で苦労しているような有様ですが、講座の共同研究プロジェクトに参加しつつ、文書館に通うという、たいへん贅沢な時間を過ごしております。今回の受賞を励みとして、激動のドイツ政治を横目で注視しつつも、じっくりと腰を据えて、新しい歴史研究のテーマに取り組んで参りたいと思います。

本日はどうもありがとうございました。