第34回 2018年 脱原発を生きる──日本の模索、ドイツの模索

第34回 日本ドイツ学会大会

開催概要

  • 開催日:2018年7月1日(日)
  • 会 場:同志社大学烏丸キャンパス 志高館

フォーラム

フォーラム1 モダニズムにおける仮面の復権とドイツ語圏のモダンダンス 山口庸子(名古屋大学)

仮面の頻繁な使用はドイツ語圏のモダンダンスの特徴の一つだが、この点に関する本格的な研究はまだない。本報告では、①モダニズムにおける仮面の復権に大きな影響を及ぼしたエドワード・ゴードン・クレイグの仮面論と、彼の主宰誌『マスク』の意義について論じる。②表現主義とバウハウスにおける仮面の使用について、クレイグ受容の観点から論じる。③表現舞踊の仮面の使用について、メアリー・ヴィグマンを中心に考察したい。     

フォーラム2  「核開発時代とその遺産」:論集『核開発時代の遺産――未来責任を問う』(昭和堂、2017年)によせて 司会:若尾祐司(名古屋大学名誉教授)

シカゴ・パイル1号ないし広島・長崎原爆から、ほぼ四分の三世紀が経過する。そして今、世界は核エネルギーの軍事利用でも、また民事利用においても歴史的な転換点に立っている。この四分の三世紀の核開発時代は、どのように切り開かれ、いかなる経過をたどり、いかなる遺産を残しているのか。個別のケース・スタディを追跡することにより、この時代は何だったのか、今いかなる転換点にあるのか、俯瞰的に考えてみたい。   

批評報告(1) 米・ソ(ロ)の核超大国を中心に 山本昭宏(神戸市外国語大学)
批評報告(2) 欧州諸国と日本を中心に 中尾麻伊香(長崎大学原爆後障害医療研究所)

フォーラム3 アレクサンダー・クルーゲの仕事と公共圏 三島憲一・竹峰義和(東京大学)・Markus Joch(慶応大学)

アレクサンダー・クルーゲ(Aexander Kluge 1932~ )は、戦後のドイツ連邦共和国において、アドルノやハーバーマスと並ぶ、いや、映画や「文学」という受容の広い仕事を考えれば、彼ら以上に知られた存在である。映画、テレビ、文字での彼の仕事を、空襲論、メディア論、そしてドイツの過去への知的反省のための手法の観点から、紹介を兼ねて論じあいたい。

フォーラム4  バウハウス 100年、その〈総合〉の理念を巡って

1.バウハウスと近代の《総合》 長田謙一 (名古屋芸術大学)

「造形活動すべては究極には建設”Bau”を目指す!」創設者グロピウスによる、このあまりにも有名な劈頭の文に明示されたように、バウハウスは、諸芸術にかかわる「総合」を自らの課題として掲げて開始された。バウハウスにおける「総合」の課題は、しかし、実際には、多義的である。最初に目指されたのは諸造形芸術の総合、つまり美術における諸領域の合一であるが、その後、「芸術と技術の統一」というグロピウスの新たな命題の下で新たな様相を帯び、さらに、二代目校長マイヤーの下では社会運動的な色彩も帯びてくる。バウハウスを貫く<諸芸術にかかわる「総合」の課題>は、実は、近代、とりわけ20世紀の諸芸術の抱え込んだ課題の集約に他ならないのではないか。本発表は、バウハウスの〈総合〉を歴史的にたどることを通してこの問の地点にまで至ろうとするものとなる。
   

2.バウハウス教育 変遷の中にあるもの 杣田佳穂 (ミサワバウハウスコレクション学芸員)

「バウハウスの教育」というとき、多くの人が想像するのは、開校時から一貫した革新的教育システムがあったに違いないということだ ろう。実際は、バウハウス教育はたった14年の存続期間でも変化し続けていた。それは、全体のカリキュラムの変化と同時に個々の教師がそれぞれの裁量で「ゼロからはじめる」新しい教育を模索したからにほかならない。バウハウスの教師たちが作り上げた授業はそれぞれ大変ユニークであり、ということは、その人の退陣とともに消えるものでもあった。本発表ではバウハウスの教育カリキュラムの変遷を紹介するとともに、教師による授業の違いや、ひとりの教師の中での授業の展開等を取り上げ、全体としては揺れ動きながら進んだバウハウス教育の変遷の中にある「変わらない要素」を探る。
   

3.写真に見るバウハウスの全体像について 深川雅文 (インディペンデント・キュレーター)

バウハウスでは、1923年、モホイ=ナジのマイスターとしての着任を機に、写真への熱い関心が、カリキュラムに位置付けられてないにも関わらず、湧き上がった。多くの教師、学生たちが、当時のニューメディアとして写真に関心を寄せ、記録と表現の二つのレベルで特筆すべきイメージを多数残した。その成果は、1990年代になって「バウハウスの写真」というテーマで展覧会等でクローズアップされることになった。写真は、モダニズムの空間とイメージの創出に重要な役割を果たすとともに、バウハウスという活動体全体を映し出す鏡としての役割を果たした。本発表では、バウハウスのいわば自写像を、変転していったバウハウスの全体の動きを把握するための手がかりとして読み解き、総合的ビジョンの獲得へのアプローチを試みたい。  


   

シンポジウム

脱原発を生きる──日本の模索、ドイツの模索

  • 開催時刻:13時30分-17時

2011年、東京電力福島第一原子力発電所事故が発生し、ドイツ政府は2022年までにすべての原発を停止すると決定した。これらを受けて、日本ドイツ学会は、翌年7月に「ドイツ・脱原発の選択」を、その後5年にわたって脱原発社会の構築やエネルギーシフトに関するフォーラムを開催してきた。

いまなお、2011年の衝撃のなかにあるわたしたちは、これまでドイツ学会で蓄積されてきたさまざまな議論を、今回「脱原発を生きる」というテーマのもとで総括したい。

なぜ、「脱原発を生きる」なのか。それは、エネルギー転換 Energiewende を、政策やその転換とは異なる切り口からとらえたいからである。しかもその際に、環境思想や運動理念からだけではなく、地べたを這うような等身大の人間の暮らしのレベルから考えたいからである。

原発立地は、人びとに「住むこと」や「働くこと」、すなわち「生きること」の様式の転換を迫る。それゆえ、脱原発 Atomausstieg は、電力のエネルギー源問題としてのエネルギーシフトだけではなく、「生きること」の再転換を意味し要求する。そこで、本シンポジウムでは、日本とドイツの事例から、ポスト原子力の時代に打ち立てるべき「生の様式」について検討したい。

村山 聡 青木聡子 藤原辰史
1.高知県・窪川の模索――原発計画をもみ消すことと、その前後 猪瀬浩平(明治学院大学)

高知県西南部に位置する旧窪川町は、1980年に原子力発電所の建設が計画された後、町民による反対運動(と立地調査推進運動)が展開され、1988年に町議会が原発論議の終結宣言を決議した町である。本報告では原発騒動の一連の流れを踏まえた上で、まず窪川町で、原発立地騒動以前に展開されていた農村開発をめぐる人々の動きを整理する。ここにおいて、多様な一次産品が開発されるとともに、地域の将来像を自分たちで議論する場をつくり出していたことが明らかになる。そして、原発騒動最中の人々が、これまでにつくった関係性のなかで、如何に原発計画に向き合ったのか素描する。立場を超えた人間同士や、人間と人間以外の存在との関係が見出される。最後に窪川の経験が日本の反原発運動に与えた影響の有無を考える――それはまた、反原発運動をめぐる議論が何を見落としていたのかを探ることにもなるかもしれない――とともに、90年代以降の窪川町を取り巻く政治・経済的状況の変容を視野に入れながら、原発騒動期以降の窪川・四万十町の地域づくりが如何に展開されたのかを探る。

2.ドイツ・ヴァッカースドルフの模索――原子力施設を拒むということ 青木聡子(名古屋大学)

ドイツ南東部、チェコ・オーストリア国境に位置するヴァッカースドルフは、1980年代はじめに使用済み核燃料再処理施設(Wiederaufarbeitungsanlage、WAA)の建設が計画されたものの、周辺住民を中心とした激しい反対運動が展開され、1989年に計画が中止されるに至った地域である。本報告では、このヴァッカースドルフを取り上げ、開発やその計画がもたらされたことによって、ある地域が「中央-周縁」関係に組み込まれていった過程と、それに対する人びとの向き合い方を検証する。ただし、ここでの開発・開発計画とはWAA建設計画のみを指すわけではない。当地には、WAA建設計画がもたらされる以前にも、地域社会に強烈な影響を与えた開発が存在したし、WAA建設計画中止後もある種の開発がなされてきた。本報告では、それら複数の開発・開発計画の時期に射程を拡大する。ヴァッカースドルフの人びとがその都度その都度、いかに地域の生き残りを図り自らの生活を守ろうとしてきたのか、そしてそのなかでWAA建設計画の拒否はいかなる意義をもつのかについて明らかにしたい。

  • パネラー:山室敦嗣(兵庫県立大学) ・丸山康司(名古屋大学) ・森田直子(立正大学)
  • 司会:村山聡(香川大学) ・藤原辰史(京都大学)