第38回 2022年 日本におけるドイツ研究の「意義」?

第38回 日本ドイツ学会大会

開催概要

  • 開催日:2022年6月25日(土)
  • 開催形式:オンライン開催

フォーラム

フォーラム1 19世紀における「感情史」―日独比較を通じて 司会:小野寺拓也(東京外国語大学)
コメント:森田直子(立正大学)

近年、感情史研究が世界的に注目を集めつつある。そこではとくに以下の三点が焦点となっているように思われる。①感情規範とそのなかでの感情的発話を検討することで、「構造と個人」「規範と実践」という古くて新しい問題を、感情の視点から考察する。②感情はその個人が属する社会や集団によって大きく規定され、基本感情にも影響しうるものであると理解することで、その可変性、感情の衰退や誕生のプロセスを明らかにする。③「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」というウィリアム・ジェイムズの有名な言葉に代表されるように、感情が不可避的に帯びてくる身体的次元を考慮に入れる。

本フォーラムではとくに19世紀に焦点を当てる。義務教育の浸透やメディアの発達、徴兵制などによって国民形成が進んでいく大衆社会とは異なり、国民国家が出来る前の19世紀において、権力はどのようにして人びとの感情を統制しようとしていたのか。人びとはどのような「感情の共同体」の中で過ごし、どのような感情的発話を試みたのか。日本とドイツにはどのような共通点と相違点が見られるのか。感情史の日独比較を通じて、どのような理論や枠組みを作り出すことができるのか。本フォーラムではそうした問題について検討を試みたい。

1)王権と民衆 〜三月前期プロイセンの国王誕生日祭と暴動をめぐって〜 山根徹也(横浜市立大学)

近代への転換期であった19世紀、ヨーロッパ諸国の王権もまた転換期にあり、プロイセンにおいてもそうであった。動揺する王権の統合の問題を考えるためには、王権と臣民のあいだの感情を回路とする関係のありようを明らかにすることが不可欠であろう。本報告では、1835年のプロイセン国王誕生日に王都ベルリンで起きた暴動を事例研究の対象とし、民衆の感情の論理のようなものがいかなるものであったか、それが王権にとってどのような意味を持っていたかを考察し、問題への視野を開くための予備作業としたい。

2)和歌と真情―ポスト宣長期の国学者を事例に― 三ツ松誠(佐賀大学)

古来、「うた」には感情を盛る器としての意味が存在していた。しかしどんな感情をどう盛るかが、歴史的状況に応じて大きく異なることは、容易に理解されるところであろう。本報告は、本居宣長以降の国学者を事例にした、19世紀日本における社会体制の変化と、感情を顕す媒体としての和歌の在り方の変化との相互関係をめぐる、一試論になる。

3)「道」に努める心―19世紀中葉における朱子学の実践― 池田勇太(山口大学)

倫理思想としての儒学では、独創的な思想や重要な主題にまつわる思想史的展開ばかりでなく、一見凡庸としか見えないような卑近な道徳の実践が、当事者にとっては重要な問題だったはずである。徳川時代後期の日本では儒学が大衆化し、しかもその実践を追求する「実学」が流行した。本報告では、19世紀中葉の熊本藩において、朱子学の実践に挑んだ武士たちの記録から、彼らが道徳的な規範に心を合わせようとした努力の軌跡をたどってみたい。

フォーラム2  研究報告フォーラム 司会 近藤孝弘(早稲田大学)

1)代議制民主主義の感性的「技術」——クリストフ・マルターラー『ゼロ時あるいは奉仕の技術』における笑いと歌の共同体 針貝真理子(東京大学)
コメント:北川千香子(慶應義塾大学)

独自の構成による音楽劇で知られる演出家Ch・マルターラーの代表作のひとつ『ゼロ時あるいは奉仕の技術』(1995)は、敗戦によってゼロからの出発を余儀なくされ、「奉仕の技術」を訓練させられている政治家たちの姿を提示する喜劇である。笑いや歌という感性的「技術」の「奉仕」先となる観客は、劇場内で国民および民衆(Volk)の役を与えられる。本発表では、感性的魅力が持ちうる政治的機能を、代議制民主主義のパロディである本上演の分析を通して再考する。

2)ドイツ福音主義教会の改心と刷新―ラインラント州教会会議決議に見る反ユダヤ主義の克服― 新山正隆
福永美和子(大東文化大学)

戦後ドイツの福音主義教会は第三帝国時代のユダヤ人迫害に対する教会の罪の問題に向き合い、信仰に内在した反ユダヤ主義の告白に至った。それを最初に表明したのは、1980年ラインラント州教会決議「キリスト者とユダヤ人の関係を新たにするために」である。「キリスト者はホロコーストに共同責任と罪を負う」と告白した本決議に至る神学者らの論争、一般信徒の意識等を踏まえ、社会的視点からこの取組の評価を試みる。 

シンポジウム

日本におけるドイツ研究の「意義」?

  • 15時30分-19時
  • 司会:森田直子(立正大学)・青木聡子(名古屋大学)
  • コメント:相澤啓一(ケルン日本文化会館)

<企画趣旨>
日本の人文科学における研究環境が厳しさを増し、ドイツ(語)のプレゼンスが低下を続けるこんにち、なおドイツ(語圏)を参照項とすることに「意義」はあるのだろうか。本シンポジウムでは、ドイツの視点からの日本のドイツ研究の現状分析と、ドイツの日本学を取り巻く状況との比較対照により、日本のドイツ研究を客観的に見直すとともに、学術研究に過度に「有用性」や「意義」を求めることの危うさも、過去の独文学者の言説から明らかにする。その上で、日本において、ドイツ語圏を対象に、ドイツ語を用いて研究・教育を行うことの「意義」とは何かを、ドイツに携わる研究者全員の問題として改めて考え直したい。

辻 朋季 (明治大学)
1.ドイツにおける日本学の現在状態についての感想 Till Knaudt(京都大学)

インターネットと「人工知能」の台頭により、ドイツにおける日本研究の伝統的な言語指向の分野が危機に瀕している可能性がある。「デジタル・ヒューマニティーズ」に関心を持つ外部資金によるプロジェクトの最近の傾向が、研究方法論をどれほど変えたかを考えたい。翻訳機と情報源のデジタル化は、少なくとも大学当局の目には、日本での専門的な日本語教育とフィールドワークを時代遅れにしたかもしない。ドイツにおける日本研究は、その社会的重要性を誇示するか、「文献学的方法」である「クロース・リーディング」を強調することによって、この課題に取り組んでいる。報告では、ドイツにおける日本研究の歴史を考察し、日本研究がこの課題にどのように反応するかを明らかにすることを目指している。

2.ドイツにおける日本研究の「意義」?――デュッセルドルフ大学現代日本研究所を例として 小林亜未(ハインリヒ・ハイネ大学デュッセルドルフ/コブレンツ・ランダウ大学 )

「日本学を勉強して、将来何するの?」という問いは、私の所属する現代日本研究所の学生、教員ともに、定期的に耳にするのではないかと思う。私自身はずっと教育学科に籍を置いていたため、日本/ドイツ研究者というよりは、日独を主な研究対象とする教育学者という認識の方が強い。そのためか、上記の問いに対しては今日まであまり自信を持って回答できていない。今回はデュッセルドルフの事例を紹介するとともに、「モデルとして学ぶ」ための地域研究と、「身近な問題をより多角的に理解する」ための地域研究について検討したい。

3.安倍能成、ダメ学者と呼ばれて(も) 高田里惠子(桃山学院大学)

アカデミックか否かという区別、本物の学者、オリジナルな業績といった考え方が、西洋文学や西洋哲学の学問業界のなかでどのように浸透していったか。このことを、安倍能成(1883~1966)を例にとって見ていく。

漱石門下生、旧制一高校長、学習院院長としても知られる安倍は、華やかな活躍にもかかわらず、あるいはむしろそれゆえに、哲学研究者としてはいかに冴えない二流であるかを言いつのられることが多かった。安倍自身もそれにたいして自分の意見を表明し、その結果、安倍の周辺には「研究」とか「学問」とか「業績」とは何かといった言説が渦巻くことになる。こうした「研究」の意義に悩み拘る、悲しくも愉快な言葉群を紹介していきたい。