2010年度日本ドイツ学会奨励賞 中村綾乃 氏『東京のハーケンクロイツ』

2010年度日本ドイツ学会奨励賞

受賞作

2010年度日本ドイツ学会奨励賞は、学会奨励賞選考委員会による慎重な選考を経て、中村綾乃 氏(日本学術振興会特別研究員:お茶の水女子大学)『東京のハーケンクロイツ 東アジアに生きたドイツ人の軌跡』(白水社)に決定されました。2011年6月25日、朱鷺メッセ新潟コンベンションセンターにおいて開催された日本ドイツ学会大会での授賞式において奨励賞選考委員会の石田勇治委員長から選考経過と受賞理由の発表があり、日本ドイツ学会姫岡とし子理事長から中村綾乃氏に賞状と副賞が授与されました。

選考理由

ドイツ学会奨励賞選考委員会は、会員から推薦のあった三つの作品を候補作品として審査を行い、慎重かつ公正な審議の結果、中村綾乃氏の著書『東京のハーケンクロイツ-東アジアに生きたドイツ人の軌跡』(白水社、2010年刊)を2010年度奨励賞受賞作品とすることで一致しました。以下、簡単ですが、中村氏をご紹介し、あわせて選考理由についてご説明させていただきます。

中村氏は1976年のお生まれで、東京女子大学ならびにお茶の水女子大学大学院に学ばれ、現在、日本学術振興会特別研究員であります。これまで一貫して歴史学、とくにドイツ現代史の分野でナチズムに焦点をあてた優れた論考を数多く発表されてきました。今回の受賞作は、お茶の水女子大学に2006年に提出して受理された博士論文「東アジア在留ドイツ人社会におけるナチズムの成立とその浸透」を土台に、その後、アメリカ合衆国国立公文書館等で行った史料収集の成果を加えて、新たに刊行されたものです。

表題からはナチ時代だけを扱う作品のように見えますが、本書が考察対象とする時期は、東アジア各地にドイツ人社会が形成された19世紀後半から第二次世界大戦の終結直後期までです。こうした長いスパンをあえて設定することで、東アジアのドイツ人社会が、本国にヒトラー政権が成立したことによっていかに変容したか、その連続と断絶の局面を考察するための前提が出来上がりました。

汗牛充棟のナチズム研究の中で本書が放つ異彩は、中村氏が提起する「越境的な視点」と、人びとの日常史から歴史の本質に迫ろうとするその研究手法に負っています。ここでいう「越境の視点」には、東アジアの複数の地域・都市を考察対象とすることで、ナチズムをめぐる日独関係を多角的な国際関係の中で捉え直そうとする中村氏の問題設定が含まれます。上海や神戸といった、ドイツから遠く離れた「異郷の地」に住み、現地社会から隔絶された世界に生きるドイツ人たちが、ナチズムの運動やイデオロギーといかに向きあい、なぜこれを受け入れたのか、中村氏はナチ時代以前のドイツ人社会に注目し、そこで個人として、集団として求められた「ドイツらしさ」を論じ、ドイツ人アイデンティティを強めた「異郷のドイツ人社会」のあり方そのものが、やがてナチズムの浸透を可能にする条件を整えたと指摘しました。

本書によれば、ナチズムが異郷のドイツ人社会に浸透したのは、たんにイデオロギーの積極的な受容によってではなく、むしろそれが日常的で社会的、非政治的な経路を通して、また具体的な人間関係や利害関係、コミュニティーへの帰属意識と結びつくことで可能になりました。たしかにこれは本国にも認められる現象ですが、本国との距離が現地のドイツ人社会にかなりの裁量の余地を与えたのでした。

本章を構成する六つの章の中で、ナチズムの浸透過程の実相を伝統ある社交界の反応や、ナチ・シンボルの導入をめぐる悶着などに着目して論じた第三章、ナチ体制下のグライヒシャルトゥンング(統制)が、本国政府の意向とは裏腹に現地社会に順応して進められたこと(ナチズムの現地化)を論じた第四章はいずれも出色の出来であります。多くのエピソードをちりばめ、読む者を惹きつける本書が生まれた背景には、数多くの文書館で未公刊史料を渉猟しつつ、他方で関係者に向き合って直に聞き取り調査を行ってきた中村氏の努力がありました。

選考委員会では、本書が従来のドイツ史、日独交流史の枠を超えるグローバルアプローチの新たな試みとして高く評価する点で一致しましたが、同時にいくつかの問題点も指摘されました。たとえば細部を描くさいの時代背景(大状況)の捉え方が平板であり、個々には興味深い出来事が全体の文脈にうまく位置づけられていないのでないかという批判です。また、本国から異郷へ向かうベクトルだけでなく、異郷から本国へ向かう逆方向のベクトルについても論じるべきではなかったかという声もあがりました。しかし、こうした不足は中村氏の今後の努力で克服されるべきものであり、本書の価値を損なうものではありません。本書に示された中村氏の深い洞察力と、物事を周到に調べ抜く力、豊かな筆力を見れば、中村氏が今後いっそうの研鑽をつむことで、ドイツ現代史研究のみならず、広く学際的ドイツ研究に大きな貢献を果されることは間違いないでしょう。

以上の理由から、本選考委員会は中村氏の御著書を奨励賞受賞に相応しい作品と判断しました。

中村綾乃 氏の受賞あいさつ

このような賞をいただけることは、私のささやかな研究キャリアにおいて大変光栄なことです。これまで惜しみない助力を注いで下さったすべての方々に、この場を借りてお礼を申し上げます。

若気の気負いのままの稚拙な研究という留保をつけつつ、積み残した課題、批判や問題点を放り出さずに、向き合っていきなさいという叱咤激励が込められた受賞ですので、その思いに答えられるよう精進してまいりたいと思います。

本書は、東アジアのドイツ人社会とナチズムの政治的浸透をテーマとしています。当時の日本や中国のドイツ人は、このドイツ人コミュニティと日常的かつ深く関わっており、コミュニティへの帰属意識が強かったといえます。1933年以降、各都市のナチ党支部は、このドイツ人コミュニティのイデオロギー的な統制をはかりました。ドイツ人コミュニティから疎外されることを恐れたがゆえに、ナチ党支部の集会に足を運び、党への寄付金に応じたドイツ人も少なくありませんでした。このコミュニティの存在や帰属によって、ナチ党支部の統制は日常的かつ私的領域に浸透していくことになったといえます。

さて、私たちもさまざまなコミュニティに属しており、多かれ少なかれ帰属意識を持っているのではないでしょうか。歴史家のコミュニティやドイツ研究者のコミュニティ、アカデミカーのコミュニティがあり、学会や研究会、同窓会などがコミュニティを形成する核の役割を担っています。ただこのコミュニティの構成員は一様である必然性はなく、むしろ幅広い世代、多様な経験を持つ研究者が集う場でなければならないと思っております。私の研究自体、民間史学の恩恵を受けており、地域史や郷土史、史料収集や保存に携わる方々、学校の教壇に立っている先生方や日曜歴史家の方々など多様な研究者から刺激を受けてまいりました。

本書で依拠した史料基盤に多少なりとも独自性があるとすれば、神戸や横浜、天津のドイツ人学校の関係者の方々のおかげです。戦時下の日本や中国で子供時代を過ごしたというドイツ人(ユダヤ系を含む)の方々ですが、私のインタビューに応じて下さり、日記や個人書簡、写真などを提供して下さいました。オーラルヒストリーの手法ですが、史実との照合をはかるものではなく、どのような視角から記憶や証言を語るのかなど、記憶の形成を分析する一助として捉えております。語られる記憶が曖昧であったとしても、史料的な価値が失われるわけではなく、どのような記憶が曖昧でどのような記憶は鮮明であるのかという分析も可能なのではないでしょうか。戦後60年以上を経て世代交代が進んでおり、戦中生まれ、日本でいう「昭和一ケタ世代」の方々に直接お会いしてお話をうかがうことは年々難しくなっていくでしょう。またこのたびの東日本大震災と大津波、それに引き続く原発事故でも、貴重な史料が失われることになってしまいました。日記や書簡などの個人文書、記憶や証言などは、歴史を再構成していく史料となります。このような史料の記録と保存、公開は、体験や文化、歴史の教訓を次世代に伝えていく上で欠かせないことですが、残念ながら日本においてはその意識が低く、情報公開も遅れているといわざるを得ません。歴史研究と不可分の取り組みとして、史料の記録と保存、公開がありますが、その協力をこの場を借りて呼びかけさせていただければと思います。

本日はどうもありがとうございました。